21世紀に入ってからのエリック・クラプトンは自分の過去と対峙した作品を作り続けている。自身の生い立ちであったり、身内であったりを主題にしたり、あるいはあこがれた演奏家との共演作を作ったり。
これはブルース・ギターの王様、B.B.キングとの「ライディン・ウィズ・ザ・キング」(2000年)に続いて、敬愛するギター奏者と手合わせした作品。こんどの相手はJ.J.ケイル。クラプトンはJ.Jの楽曲をよくカバーしていた。中でも「アフター・ミッドナイト」「コカイン」はクラプトンの70年代を代表する楽曲になっている。
僕もJ.Jの存在はクラプトンを通じて知った。それこそ「コカイン」を聴いた後だから80年代だったか、J.Jの作品を2作ほど手に取ってみたが、正直いうと理解するには至らなかった。
これは僕にケイルが何者であるかの認識が薄く、勝手に抱いたイメージと隔たりがあったため、その溝に、いわば落ちてけがをしてしまったようなものだったと思うのだが、ともかくよく分からなかった。
僕はケイルのことを、いわゆる白人ブルースマンだと思っていたのだ。が、彼の音楽はもっと幅広く、いうならば米国の各種民族音楽の総合商社−−いや、セレクトショップといった方が似合う。
つまるところ、彼は米国という軽音楽市場のど真ん中で暮らしてはいるが、ワールドミュージックの演奏家とむりやり分類してしまったほうがいいのではないか、と僕は考えるのだ。
実際、僕のケイルの音楽に対する第一印象をひとことでいうなら「神秘的」だった。
また、誤解をおそれずにいうならば、ワールドミュージックをピュアな音楽とするなら俗にまみれた音楽しか受け付けない僕の耳には退屈でさえあった。それは呪術的であるということの裏返しなのだけれど。
さて、この新譜はそうしたケイルの音楽に対してクラプトンがあらん限りの敬意を表して作られている。つまり−−ケイルのファンがどう受け止めるかは分からないけれど−−ほぼ100%ケイルの音楽世界が展開されている。
したがって、この作品もまた、かむほどに味が分かる聴き手もいれば、かんでもかんでも味が分からない人もいるかもしれない。それはそれでクラプトンのケイルに対する真摯さの結果ではあるのだが。
おそらく70年代の当時彼がケイルに抱いていた感情は敬意のみではなく多分に嫉妬も含んでいたと思われる。前述のように過去と対峙し続けているクラプトン。自分の中に積み残した負の感情の浄化−−のような作業を続けているのかもしれない。
(ENAK編集長)