昭和42年、入団1年目という異例の早さでデビュー。その後は1年間で10数作品を手がけ続けている
−−思い出深い作品は?
任田幾英 宝塚大劇場で宝塚友の会の特別公演があって昭和45年から3回かかわりましたが、大御所ばかりが出演されていてね。50年の「花戦」には大スターの天津乙女さんも出演された。オーラがすごくて、衣装の布地を染めて、デザインを持ってお宅へ説明に行きましたが、手が震えて止まりませんでした。
−−海外ミュージカルも数多く担当されています
任田 43年の「ウエストサイド物語」も大変でした。ニューヨークの下町の物語ですが、舞台稽古(けいこ)でみんなピカピカの衣装を着ていた。そうしたら、アメリカから来日した演出のサミー・ベイスさんが「何だ、この衣装は!」と。宝塚では、衣装は既製品でいいような物も全部、スターに合わせて作るので新品なんですよ。
−−ジーンズにTシャツ、ジャンパーの衣装ですよね
任田 阪急電鉄の線路の周辺にある鉄粉をドラム缶いっぱいに集めてもらってね。歌劇団の屋上に新しい衣装を並べ、鉄粉と水をかけてみんなで踏んづけて、ドロドロになったものを洗って徹夜で翌日の本番に間に合わせました。
−−失敗したな、と思ったことは?
任田 甲にしきさん(現東京宝塚劇場支配人)のトップお披露目公演「アポローン」(45年)の一場面で、薄いベージュや茶などを使ったんです。自分では斬新だと思ったのですが、地味だったのかショーアップしなかった。劇評にも「文学的だけど宝塚に合わない」と書かれまして。でも、それから逆に茶やベージュの地味な色を大胆に使えるようになりました。
−−ほかにもいろいろ、エピソードはありそうですね?
任田 白井鐵造先生が作・演出した「ドン・ホセの一生」(46年)で通し稽古が終わり、午後からの本番の前にお昼を食べていたら白井先生から電話が入ってね。50、60人出ている幕開きのスペインのアンダルシア地方の民族舞踊の場面の靴を、「白が浮くから黒に変えて!」と言う。民族衣装調のデザインだから代わりはすぐに用意できない。本番まで1時間ぐらいしかなくて衣装部も、劇場事務所の課長さんもみんなで必死になって靴墨を塗ったんですよ。みんな真っ黒になって、それは大変でしたよ。
−−演出家はわがまま
任田 でも、そういう傾向の性格の人が演出家になれるのです。演出家が「今からこんなこと言って悪いなあ」と気遣ったら、いい作品はできません。こだわりがあるから独自の世界が生み出せて、そのこだわりがスタッフの刺激になるのです。
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