ハンク・ジョーンズ(3)
ウイットに富んだ受け答えを続けるハンクが表情を曇らせたのは、今年5月に76歳で亡くなった弟、エルビン・ジョーンズのことに話が及んだときだ。
かわいさひとしおだったエルビン
エルビンは、60年代ジョン・コルトレーン(サックス奏者)が率いて、「黄金の」といわれた四重奏団に在籍していた。手足の動きを複雑に組み合わせながら驚異的なビートを繰り出した。力強さも他の演奏家の及ぶところではなかった。ひとりで演奏しているようには聞こえなかった。ジャズドラムの歴史にその名がさん然と輝くひとりだ。
「エルビンは末っ子でね。それだけに特別にいとおしかった」
ハンクによると、ジョーンズ家は6男4女の10人きょうだい。ハンクは3番目の長兄。つまり姉がふたりいる。5番目の二男、サドはトランペット奏者としてやはり活躍した。エルビンは最後に生まれた双子のひとりだったという。双子はエルビンとアルビンと名づけられたが、アルビンの人生は星の瞬きほどに短かったという。
「双子はテレパシーのようなものでつながっているというじゃないか。科学的根拠のある話かどうか知らないが、エルビンはアルビンの死をずっと背負っていたような気がする。エルビンの中にはアルビンの分も生きなくてはならないという気持ちがあったのではないか。エルビンの演奏は常に他人の倍以上の力にあふれていたのは、エルビンはアルビンとふたりでドラムをたたいていたからなんだよ」
話しながらズボンのポケットをさぐる。取り出したハンカチで、鼻を押さえるが、涙は止まらない。
「エルビンは人を大切にするやつだった。大切だと思う相手のことは、思いっきり抱き締めるのが、あれのクセだったよ。そうそう、ズート・シムズ(バリトンサックス奏者)は、エルビンの抱擁が力強すぎたせいで、あばら骨を折ってしまったっけ」
音楽とはコミュニケーションだ
やっと、笑顔が戻った。長いキャリアなのにいっこうに尊大ぶらない。この来日時は、東京・渋谷の外資系CD店にあいさつ回りまでした。いわゆるインストアイベントではなく、売り場担当者に本当にあいさつをしに出かけだのだ。あなたのような歴史的な演奏家が、そこまでしなくても…というと、「ヒステリー? ヒストリー(歴史)? すべてはお金のためさ!」とまたおどけてみせる。それから真剣な表情になって話し始めた。
「お店はお客さんと直接つながっている場だ。その担当者に私という人間を理解してもらったほうかいいとは思わないかい? 大勢の人に聴いてもらうには、まずお店の人に私のことを理解してもらう必要がある。つまり、こうした行為はすべて私自身に返ってくるのだ。それは人と人とのコミュニケーションということだ。音楽とは何か。それもまたコミュニケーションだ。演奏家は演奏を通して聴き手に何かを投げかける。聴き手はそれを私に投げ返してくる。演奏家と聴き手のボールの投げ合い。つまるところ、それが音楽だ。『客席のたったひとりの心をつかめれば満足だ』なんていった演奏家がいたけれど、私にすればとんでもない話だ。ひとりでも大勢の人に楽しんでもらいたい」
ライブのときは、だれのために演奏するか。自分のためじゃない。観客のためだとも。ハンクは滞在中、当然、ライブもこなした。千葉・舞浜に新しくできたジャズレストラン「クラブイクスピアリ」でのライブは、GJTとしてではなくハンクのトリオの名義で行った。ドラムは、ジミー・コブ。こちらもマイルスの名盤「カインド・オブ・ブルー」にも参加していた、今や大ベテラン。歴史の証人のひとり。
このトリオによる演奏は、おそらくそれほどきちんとしたリハーサルはしていなかったと思われる。必ずハンクのピアノ独奏で始まり、ドラムとベースは途中から入ってくるという構成が、まず、打ち合わせ時間の短さをうかがわせる。ソロもピアノ、ベース、ドラムという順番を通した。そして、ジミーが、いささか暴走気味に、あるいはがんこ者ふうに、やや強引にことを進めるのだが、ハンクはそういうジミーの手綱を上手にとりながら全体を進めた。そして、1曲ごとにハンドマイクをもち、律儀に曲名を紹介する姿を見るたびに思い出すのだ。人と人、そして音楽でもっとも大切なのは、コミュニケーションなんだというハンクの言葉を。
TEXT & PHOTO BY TAKESHI ISHII/石井健
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ス・ワンダフル
ザ・グレイト・ジャズ・トリオ/THE GREAT JAZZ TRIO
VRCL 18822
(CD & SACD Hybrid)
¥2,835 (tax in)
01.ス・ワンダフル
02.スウィート・ロレイン
03.モーニン
04.酒とバラの日々
05.テイク・ファイヴ
06.アイ・サレンダー・ディア
07.ナイト・トレイン
08.恋人よ我に帰れ
09.グリーン・スリーヴス
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PROFILE |
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1918年7月31日、米ミシシッピ州ヴィックスバーク生まれ。その後ミシガン州ポンティアックに移り、10代のころから地元で演奏を始める。44年にニューヨークへ出て、当時の先端ジャズだったビ・バップを吸収。47年にはオールスターによるジャズ興行だったJATPに参加。翌48年からは名歌手、エラ・フィッツジェラルドの伴奏を務めたり、ビ・バップの開祖であるチャーリー・パーカート共演したりした。
50年代はさまざまなレコーディングに参加し、59年から17年間は放送局のスタッフ演奏家としてテレビやラジオ番組の演奏にもかかわった。
76年4月、日本人のアイデアから生まれたザ・グレイト・ジャズ・トリオに参加し、以後、GJTとして多数作品を発表。
日本の大手家電メーカーのテレビCMに出演し、そこでの「ヤルモンダ!」というせりふが大いに流行したことも。 |
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公式サイト
http://www.eighty-eights.com/ |
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