ため息つかせて
この記事は産経新聞96年02月27日の夕刊に掲載されました。
昨日ガーシュインの「ポーギーとベス」の日本公演舞台を見て、今フォレスト・ウィティカーの監督作(1995年)2時間1分を見る。ともにオール黒人出演作品だが、その演技エネルギー、真正面からぶつかってくる演技の迫力に見入ってしまう。
「ため息つかせて」はフォレスト・ウィティカー、この黒人俳優の監督作品。彼はすでに「ハード・ジャスティス」(監督のみ)があるが、これは見逃したので今回が初めて見るこの俳優の監督作。「クライング・ゲーム」(93)、「スモーク」(95)でいっぺんに私のごひいき。「バード」(88)でカンヌの主演男優賞を取っている。
巨体ではないが黒人の男っぽさとセクシィを強く感じさせる男性派。なのにこの「ため息つかせて」は思いもかけぬ女人映画(ゝゝゝゝ)。女の肌の匂いが画面を染める。ウィティカーがかかる女性映画と叫びたくなる驚き。それは嬉しさだ。
アメリカ映画の女の粋をこれほど見せた映画は、遙か昔のパラマウントのモンタ・ベル以来。いかつい黒人俳優ウィティカーが、言うならば芸者の口紅を小指で触った感じ。オール黒人女優がこの黒人監督のもとでブロードウェイ三幕四場の名舞台劇さながらの名演技を見せた。
舞台はアメリカのフェニックス。テレビプロデューサーのサバンナ(ホイットニー・ヒューストン)、夫と離婚訴訟中のバーナディン(アンジェラ・バセット)、ハンサムに弱くすぐベッドインするロビン(レラ・ローコン)、夫と別れて17歳くらいの反抗期の男の子を抱えて美容院をやっている女グロリア(ロレッタ・ディバイン)、女、女、女、女、この4人の「女」がすばらしい。
まさに舞台劇である。ここに黒人の底力を見る。黒人の生きてゆく底力だ。女の映画だが、黒人の火が燃え上がっている映画だ。
愛する。捨てられる。男、ここに見る男、その描き方の巧み。いまさら申すまでもないが、フォレスト・ウィティカーはアメリカ映画の誇る監督、俳優。すでにそうなっているか、本当にそうなってきた。
(映画評論家)