「スモーク」この出演者たちの名演に酔いたまえ
この記事は産経新聞95年09月26日の夕刊に掲載されました。
私は映画の探偵でもなく映画の裁判官でもない。いつでも好きな映画だけを取り上げている。それでは批評家とはいえまいと叱(しか)られるであろうが、私は映画が死ぬほどかわいいので、わざわざ嫌いな映画を“愚作”とお伝えする暇を持たぬ。好き嫌いは人間のわざ、私とてオリバー・ストーンやビム・ベンダースは好きでない。けれどこのような2人も紹介する義務があるのでペンを執るが、うれしくはない。
ところで最近の親友と申したい監督に、香港生まれのサンフランシスコ移住のウェイン・ワン監督。親友といってもじかに話したこともない。好きな映画を見せてくれた監督は私には親友だ。この監督に「ジョイ・ラック・クラブ」というアメリカ在住の中国女性四人の女の映画があった。小説の映画化だった。
この監督、こんどは3人の男と1人の少年、この男4人の映画を見せた。これも小説の映画化だ。ぱっとせぬ小説家(ウィリアム・ハート)、町のたばこ屋(ハーヴェイ・カイテル)、郊外の寂しい通りで自動車修理工場、といっても一人っきりのそこの主人(フォレスト・ウィテカー)。はじめの2人は白人、あとの1人は黒人。これに1人の黒人少年(ハロルド・ペリノー)が加わる。
場所はブルックリン、時は1990年。たばこ屋の趣味は毎朝、店の表を通る人を写真で撮ること。もう何年も続けている。町の詩とでも思うのか。1日これを小説家に見せた。彼は涙を流した。死んだ妻が写っていたからだ。
この男がふらっと表に出るなり車にひかれそうになった瞬間、うしろから抱き締めたのが黒人少年。聞くと家出少年。作家は汚い自分の部屋にとめてやった。実は少年は12年前に自分を捨てた実の親を探している。
映画はフランスのジュリアン・デュヴィヴィエを思わせる運命の回転扉のようキラキラと廻ってゆく。たばこ屋の主人の別れた女房(ストッカード・チャニング)もゾッとするほどうまい。この出演者でこの安っぽい小説はダイヤモンドによみがえった。絶対おすすめしたい。見とれてほしい。
(映画評論家)