「白い馬」
この記事は産経新聞95年04月18日の夕刊に掲載されました。
文学作家の映画というと気が重くなる。映画を知らぬくせに詩情を押しつける。すべてがそうとは言わぬが気取りがいやらしい。
ところがこれは違った。あっぱれ立派であった。脚本は監督の椎名誠を含めて岸田理生、山下梨香の三名。三名寄れば、ひとりよがりから抜け出られよう。しかもモンゴルの生活映画は、数年前「ウルガ」があった。ロシア人監督のフランス映画だ。だからモンゴルをどう今度は撮影するかに興味と心配がわく。
かくて見たあと「ウルガ」は外国人の大人の映画。「白い馬」は日本人の大人の映画。ロシア人はウルガをロシアらしい目で見た。なるほどモンゴルの若夫婦のセックス苦心までをも描いて見せた。しかしこちらは日本人。どう撮影するか、ドキュメンタリーとくいの力説が鼻につくか。そう心配。
ところが椎名誠はこれまですでに二本の映画を撮っていた。映画はもう他人じゃない。その心得ゆえか「ウルガ」とは遠く離れて、ここにはモンゴルの「少年」があった。「馬」があった。童画のスタイルでモンゴルを彩った。
この映画で驚いたのは、少年が馬の競争であらんかぎり鞭を打って走るその撮影(高間賢治と明石太郎)、長い長い移動キャメラ。それとあわせ、七歳のナラン(バーサンフー)の演技とは申したくない表情。この顔の表情、笑顔、白い歯、赤い顔、うつむいたときのマツゲの長さ、まるで童画のなかの少年の絵そのまま。
この映画を見たあと胸にしみこむのは、この少年、そして狂ったごとく競争する馬の競争シーンであろう。風、月、太陽、草原、これらモンゴル風景にはどうしてもほしい映像の詩が少ない。そうぼやく必要はない。それがないことですばらしい。サッパリとモンゴルの“少年と馬”を見つめることでこの映画は清らかだ。監督もそのべたつかぬところを狙ったのに違いない。
少年がただ一人、腰をすえ、老人のビワ弾きの歌を聞くところは、やりすぎだった。ここに詩を感じさせようとしたなら、あまいよ。それにしてもモンゴルをこのように、さわやかに、少年の心で見せたこの美しさに拍手。
(映画評論家)