「スカーレット・レター」
この記事は産経新聞95年12月26日の夕刊に掲載されました。
アメリカが堕落しそうになるとこの映画が作られる。
実は表向きはその正反対で、このストーリーは村の亭主のいる女と牧師が恋に落ちて子まで生むというカンツウ・ドラマ。見させるところはこの女をいかに残酷に裁くかという、アメリカ独立戦争まえ17世紀のマサチューセッツ、ここに上陸してきた清教徒のこわい村の出来事。
いまさらアホくさいカンツウを戒めるドラマ。実はアメリカ映画はこれを活動写真初期の1910年から5回も映画化して、私の見た2本はリリアン・ギッシュの「緋文字」(1926)とトーキーとなってからのコーリン・ムーアの「緋文字」(1934)。ギッシュの監督はヴィクトル・シェストレム。ムーアの監督はロバート・ヴィグノラ。出来はリリアンの作が最高を示した。牧師との肉体関係が知られ、彼女は足かせ手かせで村のまんなかのさらし台にしばりつけられる。
今回の1995年アメリカ映画カラー2時間15分は、デミ・ムーアの若い妻。牧師がゲイリー・オールドマン。そして死んだと思った夫が生きて帰ってきた、その夫をロバート・デュバルという配役で、「ミッション」のイギリス人監督ローランド・ジョフィの興行価値を狙った講談調ぶりが、かえってこの古めかしき作品にクラシックの色を染めていた。
原作はナサニエル・ホーソンの、なんと1850年のときに書いた小説。アメリカはこれを1852年のストーの「アンクル・トムス・ケビン」、この二大名作小説で清教徒の厳しさの誤りと黒人への愛の目を呼びかけた。
ことに「緋文字」が何回も映画化されたのはアメリカ人への禁欲の戒め、そして今その禁欲を再び呼びかけるこの時代さくごに、逆にそこが戒めの目覚めをかき立てるかのこの製作。いまどきに。けれど改めてアメリカ勉強には持ってこいのこの教材。映画の出来はいささか苦しいが“もう一度知る”ことも必要だ。
スカーレット・レターとはAの赤い一字を胸につけられる罰則。そのAとはアドルトリィ(姦通)の頭文字の一字。
(映画評論家)