「パリ空港の人々」
この記事は産経新聞95年01月31日の夕刊に掲載されました。
夢を見ているような映画である。いかにもフランス映画らしい。大人のオトギバナシであり、学者ふうに申せば全編「詩」であって、ラストのタイトルのところでシャンソンの歌が流れてくると、しめった心が妙に暖かくなる。晴れたのに空からまだチラチラと昨夜からの雪の降り残りがちらついているような映画。やわらかい映画のくせに胸を押しつける。
いろんな人の行き来する空港の話。各国の人たちだ。ところがパスポートやそのほか出港入港に必要な自分証明を忘れたり落としたり盗まれたりしたらとフッと思ってゾッとして、もう一度自分のポケットを手でさぐることがないでもない映画。
空港の手続きは実にうるさくややこしい。この映画は、その手続きにひっかかった人たちが出入港を許されないで外国人用の処理宿泊所に足止めされている、そこがこの映画の舞台となっていて、グランド・ホテル形式だ。すべてが外国人の集まりなのでそこが面白く、小宇宙とでもいえる異人たち、しかしその人たちが、一日や二日の足止めでなく、国籍と身分証明がはっきりせぬと三日どころか一年二年と足止めを食う。現に小説家はここで小説の続きを書いている。
さて、この映画の主人公(ジャン・ロシュフォール)も出港どきに鞄を盗まれそのまま急ぐ。妻が向こうの空港に迎えにくるのだ。そのまま旅客機に乗りこんだが、どう説明しても入港で足止めを食い、それが一時間が一日、一日が三日、そう延ばされてイライラするうちに、この映画はいろんな人の集まりをオトギの国の人のように描いてゆく。
この映画の主人公の学者と黒人少年のふんわりとした愛情をも面白く悲しく描く。主役のロシュフォールは「髪結いの亭主」その他で見せたのほほんとした中年ぶりが、この映画をも、まさにフランス映画そのものにし、脚本と監督のフィリップ・リオレが第一回監督作品の三十九歳なのに、この舞台劇を思わせる集団劇を“映画”にした。いまさらこのセンチメントに、映画のやさしさを思い出す。
(映画評論家)