「ピアノ・レッスン」
この記事は産経新聞94年02月15日の夕刊に掲載されました。
ロンドンのリュミエール映画館の「ピアノ・レッスン」封切り初日。その昼の映画館の前には中年の男女が列をなしていた。居合わせた私はそれを見て大人が並んでいることに感心した。
この1993年の2時間のオーストラリア映画、監督と脚本のジェーン・カンピオンの前作は「エンジェル・アット・マイ・テーブル」。少女から大人への成長アルバム。春風そよぐがごとき女の映画。この監督の成功作。ところがこの同じ監督の「ピアノ・レッスン」は同じ“女”でも女の業(ごう)が強風吹きすさぶ映画。
時代は19世紀。イギリスから13歳くらいの娘とピアノ一台を持ってニュージーランドの南端の島に来たアダ(ホリー・ハンター)。夫と死別か生別かはわからない。大きなピアノ一台を持ってきた女。しかも子連れ。ここに来た目的は再婚。夫となる男は土地買人。ピアノの置き場に困り、彼が雇っている土地の原住民との通訳男ベインズ(ハーベイ・カイテル)の小舎に、毎日毎日ピアノを弾きにゆく。ベインズは文字も書けぬ男。ピアノを見たのも初めて。ついに彼女と彼が愛し合うというよりも、愛欲全裸で結ばれる、これを小舎の外から鍵穴のぞいて見ていた娘が、新しく父となったステュアート(サム・ニール)に告げる。
ここまではメロドラマ。これから先、この女を手に入れたベインズが「嵐ケ丘」のヒースクリフを思わせ、「風と共に去りぬ」のバトラーをも思わせ、“女”が求める“男”の裸像をここに見る。ストーリーはさらに驚きの彼女のピアノへの狂愛。さらにピアノからベインズへの愛に移るこの“女”。見るも鮮やかなるベスト・ワン映画だ。
海、波、風、緑の島、ピアノ。妻と夫。母と子、無学の通訳男。映画は目にしむ美をあふらせながら、心に食い込む女の“詩”をうたう。
(映画評論家)