「静かなる一頁」これほど呼吸の長い映画はなかった!
この記事は産経新聞94年09月27日の夕刊に掲載されました。
アレクサンドル・ソクーロフ監督(ことし43歳)の1993年作。1時間17分。日本で初めての監督の作、しかもまだ若い。若いというのは、この映画、老人の監督作を思わせる。しかしまた逆に、若い学生の卒業記念作をも思わせる。
ひとりの若者が老人を殺してしまって、苦しみまどい生きる力もうせてさまよう映画。ひとめでドストエフスキーの「罪と罰」が目に重なる。
アレクサンドル・チェレドニクがその生きる力を失った若者を演じるが、映画はその彼の演技よりも、ソクーロフの貪欲な演出と、その彼の貪欲に従うキャメラのアレクサンドル・ブーロフの、むしろこれは映画作品。向こうからこちらの石の像へ悩み苦しみながら歩いてくる男。この途中、なぶられたりからまれたりのこの哀れしょぼくれた男が、足もともおぼつかなく画面手前の石像にまで来て倒れ伏すまでに三時間がかかると思うばかりのエンエンたる長廻しのキャメラ。げっそり、見ているこちらがぶっ倒れそう。
やがて悲しい少女のシーンもあるものの、映画は波止場の入江らしきその“水”“石”“かもめ”、これらをヌラリクラリと移動する。芸術映画とはこれと言いたい実はソクーロフの演出個性。ところが、見ているとこの監督の映画純粋に打たれてくるだけでなく、この監督が「映画」をなめずり廻って「映画」を淫している、それに見とれてしまう。
近ごろこれほど映画にどろどろと監督自身がよろめき、楽しみ、酔いしれた映画を見たことがない。ワン・カット、そのシーンが美術写真。ワン・カット、そのシーンの主演者のポーズそしてマスクが芸術写真。こうなるとアレクサンドル・ソクーロフ、この監督の名が(映画の目)という印象を深めて忘れられなく、こんな映画ばっかり撮っている狂人かと思って本人に遭ってみたところ、次回は「椿姫」ですよと優しく笑った。ほんとかねえと聞くと強く頭をタテに振った。
ところで、この男の中編「マリア」、なるほどこれは美しく、優しく、女の哀れをしみじみと見せていたよ。
(映画評論家)