「女ざかり」大林監督が帰ってきた!
この記事は産経新聞94年05月31日の夕刊に掲載されました。
クロスワード・パズルみたいな映画。原作の小説(丸谷才一)は、思うに、楽しみ遊び苦しみ調子に乗ってベストセラー型を押したのであろうが、これが目で見る映画となると、小説の活字が人間となって動く怖さとおかしさを感じさす。
しかし、映画は大林宣彦監督カムバックの意気あふれ、多少疲れもしたが楽しんで見てしまった。
監督はリアリズムを画面の中で生かそうとするが、小説の面白さと人間の生きた面白さが食い違う。
それでこの映画、裏からのぞかせる俳優のショーにした。それもうすムラサキにかすむ乙女姿の吉永小百合をローランサンの絵からつかみ降ろした。この映画の印象は小百合がメシを口にかきこむこと、かきこむこと、口にメシをほおばって、口の中にメシを押しつぶしているところの吉永小百合。それと頭はいいが文体がまずい、同じく記者の三國連太郎の目の下の深いシワ。
大林監督はここに、映画で遊ぶ映画を狙う。これまでの少女趣味、これまでの童話趣味を吹き飛ばして、映画遊びをしてみせた。大林監督カムバックと拍手。
そうしようとするのだが、この小説の小説文中の会話を、俳優が、生きた人間が、ペラペラしゃべり出すとグロテスクにさえなって、キャメラがまた容赦なく近写(セミ・クローズアップ)を続けるため、これがまたリアリズムをオーヴァーアクトにすり替えて見づらくする。
小百合は娘(藤谷美紀)あり愛人(津川雅彦)ありでまさに女ざかりなるも、人間的な女らしいずるさが不足。一方、三國連太郎はこれまた論説委員のエリートが皆目。
しかし、この映画はこのようにみる映画でない。水の江瀧子、月丘夢路、松坂慶子、山崎努、中村玉緒、次々と仮装舞踏会そのままの登場のこの顔触れ二十数名を楽しめばよく、小百合と三國のラヴ・シーンにガスの切れた広告風船が海に浮かぶ、そのシーンで、風船の黄色い色で“映画”ですよと自分自身を安心させているようだ。
とにかく日本映画久しぶりのこのエネルギーは嬉しいのだが。
(映画評論家)