「ギルバート・グレイプ」
この記事は産経新聞94年06月07日の夕刊に掲載されました。
「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」(1986)のスウェーデンのラッセ・ハルストレム監督のアメリカ映画。ピーター・ヘッジスの小説映画化。1時間57分。
最近これほど美しいアメリカ映画を見なかっただけに、ホール試写でエンド・マークの瞬間、思わず力いっぱい拍手した。こんなことは10年に一回くらい。
近ごろのアメリカ映画は堕落した、よかったのは「シザーハンズ」(90)と「妹の恋人」(93)くらい。ところが、この二作に主演のジョニー・デップを使って、スウェーデン人のラッセはまるでサイレント時代の最も美しい映画、それも小品を生んでいたファースト・ナショナル映画を思わせるアメリカの良き時代の映画を見せた。
場所はアイオワの田舎町。24歳になるギルバートには、18歳の脳に障害のある弟(レオナルド・ディカプリオ)と、父が死んだショックのためか異様に太って鯨のように動けなくなった母がおり、このことで結婚のことも考えられないし、この町から出ることもできない。年ごろの妹もいる。
映画は、悲しい苦しい24歳のギルバートなのに、実に暖かく描く。原作は小説なのだが、田舎町の風景や、弟が、見上げる給水タンクに昇ってハラハラさせるそれらを、目にしみる映画の強さで見せる。
しかしこの映画の狙いは、人の美しさ、人の悲しさ、そしてその人たちのすべての愛、しかも人間は死ぬ。それらが美しくおかしく悲しく描かれてゆく。
ギルバートに浮気ごころでちょっかいの手を出す中年の女(メアリー・スティーンバーゲン)もいる。しかし見つめていると、その女もおかしく哀れで憎めない。その亭主の描き方もすばらしい。人がいいのだ。ギルバートも、この町にやってくるキャンピングカーの娘(ジュリエット・ルイス)を愛し、愛されもするが、この2人の結婚への夢もはかない。
この映画、しかしラストでギルバートの母への厳しい愛が、この映画の愛のすごさを見せた。キャメラがスウェーデンの名手スヴェン・ニクヴィスト。この監督は映画の詩人だ。
(映画評論家)