「ベイビー・オブ・マコン」中世イタリアの地獄絵美術
この記事は産経新聞93年12月14日の夕刊に掲載されました。
地獄絵といっても鬼が出たり血の池が出るたぐいではない。人間の業(ごう)。人間の心の背後にこびりつく“欲”“嘘(うそ)”“色欲”、これの美術画的映画。
「建築家の腹」「コックと泥棒、その妻と愛人」「プロスペローの本」、そのずっと前の「英国式庭園殺人事件」と、これらピーター・グリーナウェイ監督の作品は難解だ。けれども見てとくをする。何がとくか。わけもなく面白く美しい。
今度の「ベイビー・オブ・マコン」(93年)は、女が男と交わらなくて子を産んだことから騒ぎが広まり、裁判となり、この嘘偽りの刑に男百人がこの女を犯す。町の男がつめかけ、一人一人がカーテン内にくぐり込むたびに女の叫声。実はこれイタリアの1600年代、そしてこれは芝居。若き17歳の殿様が数人の部下引き連れこの芝居を見るうちに、この舞台をのぞき込み、上がり込み、ここから舞台とこのときの現実が入り交じり、この金もうけ一筋に男なしに子を産んだと称する女の生きざまのエロティックと、これを裁くグロテスクがこの監督独特のタッチで、西洋春画そして西洋地獄絵を描いてゆく。
“嘘”と“欲”と“エロ”、これがイタリアの1600年代絵巻的美術のなかで好色の炎を上げる。まさにこの監督の個性。馬小舎(こや)で若き男を犯す女。男なしで子を産んだ女のスカートをめくって調べるエロティック。それらが、時代美術のキャメラとそのキャメラの大移動により、舞台美術が映画美術に動いてくる。
イギリスの監督でイギリス映画、特に前作「プロスペローの本」でシェークスピアとその舞台俳優を清流で流し描いたこの監督が、ここではイタリアの中世春画ともみたい作品を描き上げている。俳優よりも何よりもこの監督の美術。このキャメラのサッシャ・ヴィエルニーの美術をたんのうされるがよいが、二見三見かかる映画のおぞましき“美”をつかみとる勇気と楽しさをこそ抱いてほしい。
(映画評論家)