「まあだだよ」動から静に移ってきた黒澤作品
この記事は産経新聞93年03月02日の朝刊に掲載されました。
1993年黒澤明監督作品。配給東宝。カラー。2時間14分。これを見た若い人に片っぱしから聞いてみた。照れくさい。時代おくれ。ついてゆけない。私は唸った。馬鹿かと思った。しかし、日本中がいまみんな、この温かさを受けつけなくなった。怖いし、悲しい。
まことに美しく私は泣いた。内田百◆(◆は門がまえに月)(1889−1971)原作。豊かだ。品格あふれる。映画は、松村達雄の教師、今は学校を離れての文筆。夫人と2人ぐらし。小さな狭い家。猫一匹を飼って息子のごとく愛している。この廃業教師に、かつての生徒、今は中年連中が教師を慕い集まって来る。この男たちと教師の愛の描き方を“照れくさい”と若いのが言った。干からびた地面からは、このような枯れ木の若者が伸びるのか。この映画、乾いた土に水の湿りを与える。
さて、黒澤作品のこのごろの映画だが、老年にいたり「愛」一筋を追うその美しさを見る。と同時に、黒澤画面一瞬の映画感覚を見失ってはなるまい。猫のくだりの愛の豊かさ。その猫、ついに待ちに待った教師夫妻の前に戻ってきた。さぞややつれたであろう、その一瞬、その猫を私たちも教師夫妻もが見る。違った猫だった。コンチクショウと追い出すか。この映画は温かい。それと同時に、雨、夕立、雷鳴、その画面いっぱいが光に染まったイナズマの怖さ、美しさ。この映画美術、かかる一瞬を ささいと思う人には黒澤美術は素通りする。
会話が男たちゆえ、いかめしく声高い。わかりよい。そして教師に扮する松村達雄が「老教師」を見せ切った。わきに隠れた老妻の香川京子も画面にやさしい色をつける。そして、井川比佐志、所ジョージ、油井昌由樹、寺尾聰、その他誰もが力演の力(りき)を隠して力演している。セット(家)もいい。撮影者2人、斎藤孝雄、上田正治、その名も挙げておこう。
やっぱりジョン・フォードだよ。やっぱり。(映画評論家)