「学校」やさしく美しすぎる善人映画
この記事は産経新聞93年11月02日の夕刊に掲載されました。
砂ばかりの道を歩いていると緑の草の群れに行き当たった。山田洋次監督の「学校」。この監督は数年前から学校を撮りたいと言っていた。長い間の希望。それで飛びついて見たところ私の頭が錯覚した。50年前のやさしい映画と見えてしまったからである。イギリス映画の「オルランド」を見、その他、朝から晩まで外国の映画を見て回る目には、この山田監督の作品は小学生の作文に等しかった。けれどもこれこそが狙いのことが少しずつわかってきた。これは日本中の学校に行けなかった人、または今でもいいから学校に行きたい人に見てもらいたいと思って作ったのに違いない。
悲しいシーンになると雪が降ったりすると吹き出すのだが、この監督が大まじめに作っていることに気がついてくる。みんな泣いてもらいたい、みんな今からでも学校に行って勉強してもらいたいと画面の外からこの監督は穏やかに囁(ささや)いていて、誰もがわかりすぎる映画にしていることを承知する必要のある映画であった。
この映画が日本国中に流れると笑う人と泣く人、その比較は笑う人30%、泣く人70%。まさかこんな映画で泣いたりすまいの30%を押しのけて、この監督は泣く人70%にこの映画を撮ったのであろう。意地悪な見方をしないでこの映画を見よう。けれども私はこの映画には、気持ちはわかるが乗れなかった。学校へのすすめ。実は中学しか出ていない私には最も見たい映画であったのに、映画の感覚にあまりにもズレたこのやさしさがつらかった。誰が文句を言おうと、これが私の映画、その監督の信念を知りながら、この感覚のズレにしばし息が止まった。
西田敏行、田中邦衛、みんな力演だ。けれどあまり一方すぎてカゲがないと人間ばなれする。私の最も好きになりたい映画、私の最も愛する監督、それだけにこのやさしすぎはどうにかならなかったのか。
(映画評論家)