「友だちのうちはどこ?」「そして人生はつづく」
この記事は産経新聞93年10月26日の夕刊に掲載されました。
ともにイラン映画で監督は同じアッバス・キアロスタミ。イランがどこにあるのか調べるといい。各国各地の映画が訪れて“人間”は同じということを知る。これほど平和を生むものは他にはない。
「友だちのうちはどこ?」はイランの北の田舎の小学校。まず先生がよろしい。太ったオッサンがやっこらさと教室に来て上着を脱いで「お前ら宿題をしてきたか」という調子。一目でこの50歳くらいの教師が好きになる。みんなのノートを見る。すると一人の子のノートがない。先生、じっくりと叱(しか)りつける。その子、泣きそう。さてその隣の席の男の子が家に帰って自分のかばんを開けると、あのノートがなくて叱られた同級生のノートが自分のかばんの中に。びっくりしてこの少年がその友だちの家を探す。これがこの映画。
思わず画面に見とれるのは、この少年の家、この家の庭で宿題をノートに書くこの少年。すべてキャメラはドキュメント・タッチ。本当にこの監督はここの村人を使って撮影。井戸端で女たちが洗濯。「オーケー、ただしもう一度、今度は本番」。すると女たちは「もう洗濯したじゃないか」とぼやく、まったくの撮影知らず。
ところでこの友人の家探しが見るも素晴らしい。行けど探せどその家、見つからぬのだ。村の人に聞くと「あちらじゃ」「こちらじゃ」、少年はぐったり。その道、その家、その人がいいのだ。“人”が生きている。本物なのだ。
このあと3年、この監督、今度は地震で崩れたこの村の家を、パパの運転で子供があちこち探し回るというそのロード・ピクチュアが「そして人生はつづく」。崩れた石の塊の下の家の屋根を「友はどこ」「知人はどこ」と探すパパと子。途中疲れてコークを買う。店の人はいない。ゼニをそこに置いてゆく。イランの太陽が目にしみ、風がほほをなでる。映画とは本当、これなんだ。まだ汚れないこの撮影。そして人間がここに生きている。涙がこぼれた。
(映画評論家)