「夢の女」美しい明治の遊女哀感
この記事は産経新聞93年05月25日の夕刊に掲載されました。
玉三郎の監督第二作。永井荷風原作。玉三郎が舞台で演じた明治もの。お浪(吉永小百合)が奉公先でだんなに手をつけられ女の子を産む。里子に出すがひどい目にあっている様子。その子をひきとるため洲崎遊廓(ゆうかく)の花魁(おいらん)になる。
前作「外科室」よりはるかに出来はいい。
セットも凝り映画の風格を備えてきた。ところがまだ舞台だ。いうならば三幕一場の感じで進む。「目」で説明するのでなく「台詞(せりふ)」で感情を出す。もちろん美しい場面の中に女の姿を描いて絵のようだが、映画の呼吸は出ていない。映画であろうが舞台であろうが、美しく楽しく悲しく涙のにじむ、そのものであっていいのだが、舞台的に人物がとりすましてしまうと映画を見る目に水が入って見づらくなる。
大正9年(1920)アメリカ帰りのキャメラマンの栗原喜三郎が同じ洲崎遊廓界隈(かいわい)の鏡花原作「葛飾砂子」、三味線屋の娘が男を恋して、あと追い心中事件。場面カット割がこまかく見事な映画となった。映画が「目」と「動き」で説明する。それだけでなく映画がその目とそのカット割のこまやかさに大波小波を出して感情を盛り上げた。映画はそのように見て楽しんできた。この玉三郎映画、衣装はいいし、時代色もいいし、これは安心以上、玉三郎の名人芸。けれど三幕第一場ムードにやっぱりひっかかる。
お浪の遊廓での世話役というか仲居の樹木希林が努力賞もの。小百合は遊廓の女に崩れてゆくその女のメーキャップで美しくなったが、あまり可(か)憐(れん)すぎて若き日のリリアン・ギッシュが遊女になったごとしで、これは玉三郎監督の少女趣味がそう演じたのであろう。もっとこの界隈では人間臭くなってこそ映画となるもの。みんな美しくやさしくローランサンの絵のごとし。その美しさを楽しむため、これは年齢を問わずだれが見ても満足するに違いない。
この玉三郎の個性、これは大切。いまにその美しさで名作を見せる映画監督となろう。声援惜しまぬが、それまでに10年はたとう。上映時間1時間38分。
(映画評論家)