本公演とまったく違う雰囲気を醸し出すのが、現有雪組の新人公演である。
朝海ひかる、
舞風りらのトップコンビに貴城けいから水夏希に2番手男役は変わったが、主演トリオに対する新公のメーンキャストの個性は、朝海、舞風、2番手男役(ことに貴城時代)との見映えで対照をなした。白から黒、ソフトからハードへといった風情で、そこに雪組若手の異色な面白さがある。
今回も、新公主演陣が見せてくれた舞台は、本ドラマのファンタジー性があふれ過ぎた非論理展開を見事なリアリズム演技で、一見、別物の芝居を見ているような錯覚さえ起こさせた。
神に逆らって天上から堕(お)とされた堕天使ルシファーの凰稀かなめ(本役・朝海)が、人間でないが故に怜悧(れいり)で冷笑が似合う雰囲気を持ち味とした本役とはうって変わって、まるで人間っぽい姿をさらけ出した。
ルシファーに地獄から目をつけられて、人間不信の実験台、ある意味、鏡のような役割を担わされる不運な振付家ジャン=ポールの緒月遠麻(本役・水)の輪を掛けたリアルな芝居ぶりと呼応したことにもよる。
本役の水は、決してソフトタッチの男役ではないが、濃度を抑える柔軟性に一日の長がある分、喜怒哀楽に一直線な表情を見せた緒月の役作りがホットな熱情を帯び、凰稀に反照したのだ。
すなわち、天使の椅子を外され、といって悪魔の極悪にも徹しきれず、神が愛し造り賜うた人間への嫉妬と猜疑(さいぎ)心で悩む気持ちに答えを出そうと人間界を彷徨(さまよ)うルシファーの苦悩が、美しく香(かぐわ)しく流れてゆく本公演のイメージが一気に重たく、生々しく現実味を持った生活感をのぞかせた。
わたしは、新公メンバーを踏まえた演出(小柳)と主演キャストたちの、それが「あうん」の芝居だったのではないか、と興味を抱いた。物語の展開上、そのほうが大変分かりやすくなったとわたしは思うのだ。
欲望に負け、不義に走り、遂には死亡事故まで引き起こしてしまう愚かな人間を笑いながらも、神への感謝を忘れない小さな命の燃焼(リリスの死)を目の当たりにして、困惑の頂点に達してしまうルシファーの姿は、人間そのものであり、むしろ人間になりたかったのだと思わせるようで、そんな苦悶の中の優しさを凰稀が実にうまく見せた。
スラリとした長身と大人味の現代的な顔立ちの凰稀が、無理に透明感や神秘性といった役作りの方向へ向かわなかったところが、ルシファーという霧のような降る雪のような存在を、雨や風のようにはっきりと人間の心と体に感じられる日常的様子で演じたのが効果を挙げたのである。
緒月は目に力点を持つパワフルな男役。芝居心の達者さには定評があるが、今回はやや一本調子の感がなきにしもあらずだった。しかし、ルシファーを説得するところや、憎悪し合っている実母ジュスティーヌ(涼花リサ/本役・五峰亜季)との絡みなど、乱暴なセリフ回しの中に感じさせる肉親の情といった雰囲気を目付きや所作にしのばせていたのが印象的だ。
その緒月の妹でやはり、実母から疎まれ盲目の娼婦に堕ちてしまうバレリーナのリリスを演じた大月さゆ(本役・舞風)が短い出番ながら、可憐(かれん)に存在をまとめた。急に役が膨らんできた娘役で周囲の期待が窺われるが、よく頑張った。ラスト近くの「光のパ・ドゥ・ドゥ」のシーンは、凰稀とのコンビネーションが決まった。
その他、感心したのは、専科2人の役を演じた涼花と真波そら(ロベール公爵=本役・萬あきら)。2人とも年輩を意識せず、むしろ若々しく美しい立ち居振るまいの芝居で、セリフの抑揚、目配り、感情表現で貫禄を示した。
涼花は、子持ちにはとても見えない母親のイメージをそっくり演技でいかした。本来、キュートな娘役だが、弾力性ある魅力を見せた。真波もヒゲ付けたりせず、自然体の中で落ち着いた心情をセリフに込め、力量が確実に上がっていることを印象づけた。
本役・音月桂が演じたピアニストのセバスチャン役の大湖せしるが、さわやかな風。見た目がなんとも美しく、かわいい。次は、主演級になろう。かわいさが甘さや未熟さに見えないよう男役の気持ちを一層、引き締めることが肝要だ。
アンリ(本役・未来優希)の谷みずせ、エドモン(本役・壮一帆)の沙央くらまも色が付いた役を自らのすっきりした資質に引き寄せてそれぞれ、うまく演じた。
芝居巧者がそろう雪組新公メンバーだが、注文は娘役陣に比して、男役陣がみな、歌唱にもうひと踏ん張りの要があること。「芝居の雪組」の伝統を受け継ぎつつも、歌唱力に一層の研鑽(けんさん)を望む。
●雪組新人公演 Musical Fantastiqe『堕天使の涙』(作・演出 植田景子/新人公演担当 小柳奈穂子)=2006年11月28日、東京宝塚劇場。