小説を読んだ観客VSロン・ハワード監督
小説を原作とする映画が原作をすでに読んでいる観客をうならせるのは、至難の業だと考えるのは僕だけだろうか。
小説を読んでしまっているということは、すでに僕の頭の中に映像ができあがっている。僕がキャスティングし、監督した別の映像作品だ。それは思いっきりわがままに満ちている。
そんなものといちいち対決しなくてはならないのだから、小説の映画化作品が小説を読んでしまった観客をうならせるのは大変なはずだ、と思ったりする。
ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」は、いまさら説明するまでもないベストセラー。2003年に刊行されて以来世界中5000万部以上も売れているミステリー小説だ。すでに読んでいる人も少なくもないだろう。
かくいう僕も文庫版を、しかも、ちょうど試写会前日に読み終わっていた。映画の予習のためになんて殊勝な理由で読んだわけではなくて、途中で音を上げた、ミステリーが苦手なENAKスタッフから借りた
上巻で夢中になり、その読了が、たまたま試写会前日だっただけのこと。
だけど、試写会会場で着席した僕の頭の中ではまだ、僕なりのロバート・ラングドン、ソフィー・ヌヴーらが、生き生きと動き回っていた。
前置きが長くなったけど、そんなわがままな僕VSロン・ハワード監督の勝負。結果は−。2時間半という長丁場の作品で、おしりは痛くなったけれど、スクリーンから目を離せなかったのだから、これはもうハワード監督の勝ち。監督は僕に映像のもつ力、とりわけわかりやすさ、わからせやすさについて改めて教えてくれた。
映像ならではのわかりやすさルーヴル美術館のジャック・ソニエール館長(ジャン・ピエール・マリエル)が殺されて幕を開ける。ソニエール館長は遺体周囲に不可解な文字を書き残す。仏司法警察のベズ・ファーシュ警部(
ジャン・レノ)は、解読のヒントを得るため、講演でパリ滞在中の宗教象徴学教授、ロバート・ラングドン(
トム・ハンクス)を現場に呼ぶ。そこに館長の孫で暗号解読官のソフィー・ヌヴー(オドレイ・トトゥ)が現れ、ラングドンとともに美術館を脱け出し、館長が書き残した文字の意味を知ろうと奔走する。一方、館長殺害を手引きしたなぞの導師、そしてファーシュ警部も執拗(しつよう)にふたりの行方を追う。やがて、ラングドンたちは、館長が隠し続けた歴史を揺るがす秘密を知る…。
ハワード監督は、冒頭から、映像のわかりやすさを見せつける。ソニエール館長が暗殺者である修道僧シラス(ポール・ベタニー)に追われて美術館の中を逃げる。ここで講演するラングドンの姿も交互に映し出す。
小説のラングドンは、館長が殺された後、ホテルで休もうとしているところで警察の訪問を受けるが、ハワード監督の描き方はラングドンが何者であるかを短時間で観客に分からせる。映画ならではの見せ方だ。
万事がこの調子。原作からの大胆な変更にびっくりする場面もあったが、映像で瞬時に理解させてくれる。そのうえでの必然的な工夫が随所に見られる。
カギはソフィー・ヌヴーという勝手な見方そうそう。切り落とすべきところはバッサリとやっている中で、妙に丁寧に描いて気になったのが、ラングドンが閉所恐怖症であることを示す場面。ルーヴル美術館に呼ばれたラングドンがファーシュにエレベーターに乗るよう促されるが、ためらう。
確かに小説にも出てくるが小説では大きな意味をもたないこの性癖に、なぜこだわったのかと首をかしげていたら終盤で納得。ソフィーが何者であるかが明らかになったとき、観客を納得させるエピソードのひとつにつながった。
監督は主要人物のうちソフィー・ヌヴーに焦点を当てることによって、この長い小説を整理したのではないか。そう考えると、一部大胆な変更もいちいち納得がいくのだけど、どうだろう。
当たり前のことかもしれないけど、ハワード監督は小説を映像に単純に置き換えたわけではなく、ヌヴーを軸に解体再構築してみせる。ひとつの場面は後に出てくる別の場面に深くかかわっていて無駄がなく、この長い小説を2時間半の中に収めることができた。
では、ソフィーに焦点を当てると何が浮き彫りになるかに触れると、ネタばらしになってしまうので書けない。残念。
まあ、こんなふうに感じたのは今回の配役の中で“僕のわがまま映像”とイメージが合致したのがソフィー役のオドレイ・トトゥだったからに過ぎないかもしれないけれど。
過不足がないわけではない。そう感じるのは、繰り返すが僕が小説を先に読んだからであって、読んでいない人はどう観るのだろう。
剣と杯のような映画と小説
そう。やっぱり、悩ましいのは読んでから観るか、観てから読むかというやつだが、まあ、どちらでもそれぞれの楽しみ方はできる。なぜなら小説と映画はそれぞれを巧みに補完し合っているからだ。
小説を読んでいなくても、いや、読んでいないほうがラングドンたちが追う秘密のなぞ、彼らを狙う導師の正体などのサスペンスをシンプルに楽しむことはできる。
しかし、背景にある聖杯伝説やキリスト教の歴史などは、たいていの日本人にはなじみがないから、いきなり映画で接したら分かりにくいだろう。ましてや一部キリスト教団体が激しく抗議をしているように、独特の解釈で提示されているのだ。
題名にあるレオナルド・ダ・ヴィンチ諸作品に隠された“なぞ”の解説、うんちく、そして暗号解読…などのおもしろさは、映画のほうには盛り込みきれていない。
だけど小説を読んだ人たちが、どんなに“わがまま映像”を頭の中で作り上げようと、ルーヴル美術館の場面など実物を使って撮影された映画の映像にかなうわけもない。
実際ルーヴルが出てくるラストシーンは美しいしうえに分かりやすい。小説を思いきり急いで読んだ僕などは、ああ、ラングドンたちが探していたモノってこれだったのかと映画を観て初めて理解したぐらいだ。お恥ずかしい。
映画と小説は独立した作品でありながら、同時にお互いを見事に補完し合っている。映画に出てくる剣と杯のように。