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ユリア インタビュー
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ニュージーランドからまたひとり、歌姫が羽ばたいた。ユリア。ロシア生まれの19歳はアルバム「イントゥ・ザ・ウェスト」(ソニー)でデビュー。ニュージーランドといえば、ヘイリー(18)が、その美しい歌声を世界中に響かせている。「世界でひとつのピュアボイス」という惹句どおり、どこまでも澄み切ったヘイリーとはひと味違って、ユリアは透明の高音とわずかにハスキーな地声と2色の声が魅力か。「イントゥ・ザ・ウェスト」の宣伝のために来日したユリアに話を聞いた。
text & photo by ENAK編集長


ボルゴグラードの少女
ヘイリーもそうだが、ユリアも、取材中は、とびきりの笑顔を輝かせ続けた。太陽のように明るい笑顔。その人柄に触れれば、だれだってファンになってしまいそうだ。

ユリア ロシアのボルゴグラードで生まれた。その死後の1961年に改名されるまでは、旧ソ連の独裁的指導者、スターリンの名を取ってスターリングラードと呼ばれていた土地だ。

父親は、ユリアが5歳のときに、家を出て行ってしまった。「ロシア人の男性は絶対にいや」。その記憶が、そういわせる。この痛手が、後にユリアが歌手になるきっかけになる。

母と祖母と3人の暮らしは、余裕のないものだった。「言葉どおり、明日食べるものにも困ることがありました」。だが、かつてオペラ歌手を目指した祖母と学校で演劇の教鞭をとる母親は、後の歌手ユリアにとって大きな存在だった。

祖母はユリアにたくさんのロシア民謡を教えた。食卓に知人らが集まれば酔った勢いでロシア民謡の大合唱が延々と続いたりもした。

母親のほうは、ユリアが5歳のとき、歌声を聴いて「クマの声みたい。もう歌ってはだめよ」と、とげのある言葉で、娘が過度に芸術に関心をもたないよう釘を刺したこともある。「母は苦労した分、人生の厳しさを知っていましたから、私に現実的で堅実な生き方を求めたのでしょう」。

だが、母親の言葉は、ユリアの負けん気に火をつけるた。「だめと言われると反発してしまう。ぜったいに上手に歌えるようになりたいと努力しました」。知人からギターの手ほどきを受け、ロシア民謡や自作曲の弾き語りを始める。

運命は導く
ミュージカルのスターになりたい。少女のユリアは、そんな夢をもったが、「ロシアではミュージカルは盛んではないので、なんとしても海外にいかなくては」と焦りもした。そのとき、運命はユリアを導いた。母親がニュージーランドの男性と結婚し、ロシアを離れることになったのだ。

ユリア 実はこの結婚、ユリアが恋のキューピッドを演じた。知人女性が、インターネットのいわゆる“お見合いサイト”を介して米国人男性と結婚したことを知るや、母親にも登録を勧めたのだ。母親に幸せになってほしい。しかし、父親の記憶から、ロシア人男性はこりごり。そんなユリアにとって、ネット見合いは、突飛なものではなかった。母親を説き伏せた。

ちなみに新しい父親となったニュージーランドの男性も、離婚経験があり、再婚には気乗りではなかったのに、友人にほだされてサイトに登録したくちだった。そんな2人がお互いを気に入り、頻繁にメールを交わし合い、ゴールインした。

新しい父親が迎えに来て、一家はボルゴグラードを離れ、ニュージーランドへと移住したのは、2002年9月のことだった。

ニュージーランドでは言葉の壁もあったが、音楽教育の盛んな学校に通い、幸い教師に歌声を気に入ってもらったユリアは、新天地でいよいよ音楽活動に励む。もっぱら老人ホームなどへの慰問コンサートなどが中心だったが、ギターの弾き語りで言葉の通じない人たちと意思疎通を図る日々は、表現者として必要なものを身につけさせた。

「ニュージーランドの人たちは、辛抱強いのかもしれません。多様な文化が混ざり合った場所でもあり、英語が話せない人のいうことも理解しようと努力するし」

やはり、ロシア民謡や自作曲を中心に歌っていた。シンガーソングライター。それがユリアのスタイルだった。「イントゥ・ザ・ウェスト」で聴かれるような、軽音楽とクラシック音楽のクロスオーバーに取り組むのはデビューが決まった後のことだ。

そしてデビューへ
ユリアをニュージーランドに導いた運命の女神は、もう一度、ユリアに力を貸してくれる。

ニュージーランドに来て1年ほどが過ぎた03年11月。ユリアの高校の吹奏楽部がテレビ番組に出演することになっていたが、急きょキャンセル。代打のおはちが回ってきたのだ。前述のように、学校の先生がユリアの歌声を気に入ってくれていたからだ。

ユリア 番組は生放送だった。ロシアでもダンススクールの一員としてテレビに出たことはあったが、今回は不慣れな英語で話し、歌わなくてはならないという緊張の中、ユリアは「イントゥ・ザ・ウェスト」にも収録されている自作曲「ロシア」など2曲を弾き語りで披露した。歌い終わったが、何も反応がない。手順に間違えがあったかと不安に陥っていると、司会者の女性が涙を流しながら近づいてきた。感動でスタジオが静まりかえっていたのだと分かった。

「緊張はしていましたが、ふだんどおりに歌っただけでした。老人ホームでも大統領の前ででも同じこと。最大限の感情を込めるだけです」と、このときのことを冷静に振り返る。

「デビューしたいのなら、力になるわ」。テレビの女性司会者が翌04年1月に紹介してくれたのが、ニュージーランドの音楽関係者グレイ・バートレット。ヘイリーも彼が“発掘”したという。

ユリアのデビューはこうして決まった。レコード会社と契約して最初のミーティングの席。「どういう音楽をやりたいか」と問われて「みなさんのほうがプロですからお任せします」と答えて、ポップスとクラシックとのクロスオーバー音楽でいくことになった。

「疲れて帰宅した後の静かな音楽とワイン、妻との語らい−−が、ニュージーランドの男性のいやしなんですって。だから、ニュージーランドではポップスとクラシックとのクロスオーバー音楽が人気だそうですよ」とユリアが伝聞で解説してくれる。ともかくそう決まってからクラシックの発声法を勉強し始めた。

だから「イントゥ・ザ・ウェスト」には、「オンブラ・マイ・フ」のようなクラシックふうのものもあれば、「スカボロウ・フェア」などのようなポップス曲もあり、後者ではちょっぴりハスキーな地声で歌ってみせる。この2色の声がユリアの音楽の魅力のひとつになっている。先輩のヘイリーが天使の歌声なら、ユリアの音楽には天使と等身大の女性とが同居している。

ロシアのクマ 羽ばたく
ニュージーランドでも最初のうちは、よくヘイリーと比較されたそうだ。

「でも、ニュージーランドでアルバムが出て2週間もしたら、私は私と認められました。それにニュージーランドでもヘイリーの立ち位置は独特なんです。よりクラシックに近いし。とても高い声。一方ロシアというバックグラウンドをもち、低い声を生かせるのが私の味だと思っています。私にはドラマチックに歌うところがある。歌の感情の解釈の仕方がドラマチックなのでしょう。そういう意味で、私のほうがよりエモーショナルだといえるかもしれませんね」

ヘイリーはライバル?

「ヘイリーはニュージーランドの歌手が世界に進出するきっかけを作った大きな存在。あとに続く私たち感謝しています」

屈託がない。

「たぶん、いろいろな経験を積んで大人になったからでしょう。ロシアでは生活が大変でした。だから同世代の子たちより早く大人になった。子供のころから、夢を実現させる努力を続けていました」

ユリア


ロシアというバックグラウンドがある、という言葉には、ロシア民謡をものにしているということだけではなく、そんな意味もあるのだろう。苦労したのに、ではなく、苦労したからこその、この明るさ。屈託のなさなのだろうが、すがすがしい笑顔の下には、なにものにも負けないという意地があるともいえる。こんなことをいう。

「私は自分には厳しくありたいです。歌の稽古はすべて録音し、聴き直し、完璧になるまで何度でも歌い直します」

ところで、デビューしてから母親はなんといってくれたのだろう?

「実は忙しくてゆっくり母とは話せていないんです。でも、きっとクマのような声だと言ったことを後悔しているはずですよ!」

しかし、夢を実現させようとする、その力強さは、まさにロシアのクマ並み、かもしれない。母親の言葉はあながち的はずれではなかったか。クマのような胆力を備えた白鳥が世界に向けて羽ばたく。
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  1. イントゥ・ザ・ウェスト
  2. スカボロー・フェア
  3. エンジェル
  4. ザ・プレイヤー
  5. 愛の賛歌
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  7. ソフトリー・ウィスパリング・アイ・ラヴ・ユー
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  9. イフ・ユー・ゴー・アウェイ
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  11. オンブラ・マイ・フ
  12. ロシア
  13. バイレーロ
  14. オッチ・チョルニア(黒い瞳)



profile
本名・ユリア・タウンゼント 1986年1月9日 ロシア・ボルゴグラードで生まれる。
幼いころから音楽が好きで、オペラ歌手を目指していたという祖母の歌声を聴きなが育つ。
母が買ってくれたラジオから流れるポップ・ミュージックに触れて感動し、自分も「有名になってみせる」と決意する。 母親がニュージーランドの男性と結婚したのを機に同国へ。地元のテレビ番組で歌い、ヘイリーを売り出したことで知られるグレイ・バートレットの目にとまる。
英国の男性歌手、ラッセル・ワトソンの日本公演の共演者に抜擢され、生まれて初めて立ったステージがオーチャードホールという幸運な17歳は、緊張しながらも堂々たる歌唱を聴かせる。
その後、ニュージーランドのソニー・ミュージックと契約、2004年の9月にアルバム「イントゥ・ザ・ウェスト」発売。同国の総合チャート1位に。

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